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2020年10月10日

岩崎弥太郎のすごい子孫たち|姻戚関係の子孫8人の活躍を解説

更新日:2020年10月10日

三菱の創業者・岩崎弥太郎は幕末一の実業家として知られていますが、その子孫はまさに「華麗なる一族」と呼ぶにふさわしい人物ばかりです。この記事では、岩崎弥太郎の姻戚関係の子孫と、弥太郎の名言について紹介しています。岩崎家の子孫にご興味のある方は、ぜひご一読下さい。

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岩崎弥太郎とは

岩崎弥太郎は明治期に最も活躍した実業家で、三菱財閥の創業者にして初代総帥です。政府の軍需輸送を担う政商として巨万の富を得て、海運業や鉱山などの事業を発展させていきました。

岩崎弥太郎が活躍した時代には坂本龍馬や後藤象二郎などの錚々たるメンバーがいたため、歴史の表舞台に立つことは少なかった弥太郎ですが、彼の力なくしては明治維新は成し遂げられなかったと言って過言ではありません。

生い立ち

岩崎弥太郎は1835年、土佐藩(現在の高知県安芸市)の地下浪人の長男として生まれました。元々は郷士の身分であった岩崎家ですが、弥太郎の曾祖父の時代に生活が困窮し、身分を売って地下浪人となりました。

生活は貧しかったものの、弥太郎は数々の塾に入塾して学問に励んでいました。商人の道を志すようになったのは、父親の事件がらみで投獄された時に、同室の木こりから算術を学んだことがきっかけだと伝えられています。

三菱財閥の基礎

岩崎弥太郎の才能を早くから買っていたのは、同じ土佐藩の武士・後藤象二郎でした。後藤は弥太郎を「開誠館長崎商会」の主任に任命し、土佐藩の財務を一任します。その後、弥太郎は1871年に三菱の前身である「九十九商会」の経営者となります。

九十九商会は明治5年「三川商会」、明治6年「三菱商会」へと社名を変更し、明治7年に「三菱蒸気船会社」となりました。その際、社章を現在知られる「スリーダイヤ」に定めました。

現在の三菱グループの経営有数に子孫はいる?

現在の三菱グループの経営有数の中には、岩崎弥太郎の子孫は存在しません。世界で有数のグループ数を誇る三菱グループですが、創業者の血を引く有数が1人もいないというのは、財閥企業にしては珍しいことです。

岩崎弥太郎の死後は弟の弥之助が社長に就任し、三代目は弥太郎の息子の久弥、4代目は弥之助の息子の小弥太が社長となりました。しかし、終戦後は社内に岩崎家の子孫はいたものの、有数に就くことはありませんでした。

岩崎弥太郎の姻戚関係のすごい子孫たち

「三菱は国家なり」という有名な言葉がありますが、これは三菱と国家の結びつきが非常に強いことを表しています。岩崎弥太郎は娘たちを将来有望な相手と結婚させることで、政財界との結びつきを強めてきました。

岩崎弥太郎の姻戚関係の子孫には、国家を代表するような人物や大企業の取締役に就任するような秀でた人物が大勢います。ここからは、岩崎弥太郎の姻戚関係の著名な子孫たちをご紹介します。

1:第24代首相の加藤高明

第24代首相の加藤高明は岩崎弥太郎の長女春治と結婚し、岩崎家の娘婿となりました。加藤高明は東京大学法学部を首席で卒業し、明治14年に郵便汽船三菱会社に入社しました。海運業を学ぶために在職中にイギリスへ渡り、帰国後に三菱本社の副支配人となり、春治と結婚しました。

明治20年、陸奥宗光の推薦で外務省に入省し、大隈重信の秘書官・外相・駐英公使などの職を経て、大正17年に第24代内閣総理大臣となりました。

2:元外交官の岡部長景

岡部長景の妻は加藤高明の長女悦子(弥太郎の孫)で、昭和初期の外交官として知られる人物です。長景の弟・長章の妻は岩崎輝弥(弥之助の三男)の長女妙子で、兄弟ともに岩崎家と姻戚関係を結び、子孫を残しました。

長景は東京帝大卒業後に外務省に入省し、その後宮内庁を経て、1943年に文部大臣に就任しました。GHQにより戦犯容疑で逮捕される事件もありましたが、講和後は国立近代美術館館長などの要職を歴任しました。

3:日新火災海上保険の元取締役の加藤厚太郎

加藤厚太郎は、第24代首相加藤高明の次男で、弥太郎の孫として知られる実業家です。加藤厚太郎は大正8年に東京帝大を卒業後、三菱合資会社に入社し、イギリスのオックスフォード大学に留学しました。帰国後は三菱銀行を経て、三菱系の損害保険会社「東明火災海上保険(現在の日新火災海上保険)」の取締役に就任しました。

厚太郎は弥太郎の直系の子孫として、政界進出はせずに三菱の発展のために生涯働いたと伝えられています。

4:第44代首相の幣原喜重郎

第44代首相の幣原喜重郎は岩崎弥太郎の四女・雅子と結婚し、岩崎家の娘婿となりました。喜重郎は東京帝大卒業後に外務省に入省し、1924年に義兄・加藤高明の内閣で外務大臣に就任しました。

以降4度外相を歴任し、第二次世界大戦終結後の1945年に第44代内閣総理大臣に選出されました。幣原家は代々学者の家系で、弥太郎の子孫となる喜重郎の息子・道太郎も国文学者として獨協大学で教授の職につきました。

5:元京都府知事の木内重四郎

元京都府知事の木内重四郎は岩崎弥太郎の次女・磯路と結婚し、岩崎家の娘婿となりました。重四郎は東京帝大法科大学を卒業後に官僚の世界に入り、1911年に貴族院議員、1916年に京都府知事に就任しました。

弥太郎の子孫となる重四郎の長女は、土佐藩主山内家の子孫・山内豊中の妻となり、次女は渋沢栄一の子孫・渋沢敬三の妻となりました。重四郎の娘の婚姻は、この後も岩崎家の閨閥をさらに広める結果に繋がりました。

6:経済評論家の木内信胤

木内信胤は木内重四郎・磯路の次男であり、岩崎弥太郎の孫になります。信胤の妻・多代は福沢諭吉の子孫(孫娘)として知られた女性です。信胤は東京帝大を卒業後、1925年に横浜正金銀行に入行し、上海支店・東京支店の副頭支配人を経て、1945年に大蔵省に入省します。

外国為替管理委員会初代委員長・世界経済調査会理事長などの要職を歴任し、吉田茂をはじめとする歴代内閣の「経済指南番」として政財界で活躍しました。

7:維新の党所属の衆議院議員の木内孝胤氏

元衆議院議員の木内孝胤は木内重四郎のひ孫で、岩崎弥太郎の玄孫に当たります。慶応義塾大学卒業後に三菱銀行で12年間勤務しますが、いくつかの証券会社を経て、2009年に民主党から初当選を果たします。

2012年に民主党を離党した後は所属政党が次々と変わり、2017年に「希望の党」より立候補するも、落選に終わりました。現在は岩崎家の子孫として、さまざまな分野でコメントを発信し続けています。

8:由紀さおり

歌手・女優として知られる由紀さおり(本名・安田章子)は、あまり知られていませんが岩崎家と親戚関係にあります。由紀さおりの姉・安田祥子の夫・澤田久雄の母は、岩崎弥太郎の孫娘に当たります。安田祥子は岩崎弥太郎のひ孫の嫁になるので、その妹の由紀さおりも岩崎家と親戚筋にあると考えられます。

澤田久雄の母・美喜は4人の子供を産み、岩崎家の血筋を残しました。終戦後は社会事業家として注目される存在となりました。

岩崎弥太郎の名言集

三菱グループを一代で築き上げた偉大な実業家・岩崎弥太郎は、多くの会社を設立すると同時に数々の名言を残しています。岩崎弥太郎の名言は、現在のビジネスの世界にも通じる、心に響くものばかりです。そこでここからは、岩崎弥太郎が残した名言の数々を紹介していきます。

1:断じて投機的な事業を企つるなかれ

「断じて投機的な事業を企つるなかれ」とは「確実性の薄い事業には決して手を出すな」という意味です。この言葉には「国家的信念を持ってすべての事業に当たれ」という続きがあります。弥太郎は「事業は博打でするものではなく、信念を持って、国や社会のためになる事業を行いなさい」と言いたかったのだと考えられます。

この名言からも、岩崎弥太郎の実業家としての信念や、事業に対する真摯な気持ちが伝わってきます。

2:奉公至誠の念にすべて寸時もこれを離るべからず

「奉公至誠の念にすべて寸時もこれを離るべからず」とは「国家や社会のために尽くすという心は一時も忘れてはならない」という意味です。国家の事業を担う三菱の創業者・岩崎弥太郎ならではの名言です。

そしてこの言葉は、四代目・岩崎小弥太が定めた三菱の三綱領の1つ「所期奉公」にも繋がる言葉です。「所期奉公」とは「事業の最終的な目標はよりよい社会をつくることである」という意味だと考えられています。

3:人材の育成は学問のある者を積極的に用いよ

「人材の育成は学問のある者を積極的に用いよ」という言葉は、勤勉家であった岩崎弥太郎らしい名言です。弥太郎が弟に多額の資金を援助してアメリカ留学させたのは、その経験が会社の経営の役に立つと考えていたからでしょう。

この名言の背景には「学問のない者を雇ってみると全く役に立たなかった」という事実がありました。この経験から、弥太郎は「学問のある者を採用するほうが実利的だ」と考えるに至ったと言われています。

4:創業は大胆に、事業を受け継ぐには小心で当たれ

「創業は大胆に、事業を受け継ぐには小心で当たれ」とは「事業を始める時は思い切った決断をし、事業を引き継ぐ時は細心の注意を払って臨むこと」という意味です。岩崎弥太郎は数々の事業を成功させましたが、失敗に終わった事業もいくつかありました。

弥太郎は経営を引き継ぐ子孫に「事業成功のためには大胆かつ細心に、攻めるべきところと慎重になるべきところをしっかり見定めよ」ということを伝えたかったのだと考えられます。

5:小事にあくせくするものは大事ならず。

「小事にあくせくするものは大事ならず」とは「細かいことを気にしてあれこれ気を揉んでいると、大きなことを成し遂げることはできない」という意味です。一度方針を定めたら、小さなトラブルは気にせずに、目標に向かって着々と取り組むことが成功の秘訣です。

ビジネスの世界以外でも「器の大きい人は細かいことは気にせずに、器の小さい人ほど細かいことを気にする」ということが当てはまるのではないでしょうか。

6:部下を優遇し、利益はなるべく多く彼らに与えよ

「部下を優遇し、利益はなるべく多く彼らに与えよ」とは「部下を大切に扱い、会社が得た利益はなるべく多く社員に還元しなさい」という意味です。

この名言から「会社をより大きくするためには社員への利益還元が大切だ」という岩崎弥太郎の経営者としての器の大きさが伺えます。事実、岩崎弥太郎は日本で最初にボーナスを支給した経営者であると言われています。

岩崎弥太郎の子孫の活躍を知ろう

岩崎弥太郎の子孫は、政治家や経営者として名を馳せた人たちだけではありません。岩崎家の子孫には、戦争孤児の養護施設を作った子孫や学校を設立した子孫など、社会的な功績を残した人物も大勢います。

岩崎弥太郎の子孫たちは先祖の威光に頼ることなく、自らの力で人生を切り開く力を持っています。岩崎弥太郎の子孫の活躍を知ることで、私達も自らの力で人生を切り開く力を手に入れましょう。
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初回公開日:2018年12月20日

記載されている内容は2018年12月20日時点のものです。現在の情報と異なる可能性がありますので、ご了承ください。
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