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2019年01月10日

武田二十四将図に登場する24人の武将の紹介|武田信玄の名言

武田二十四将とは、甲斐の虎こと武田信玄に仕えた二十四人の武将です。戦国時代当世ではなく、太平の江戸時代になってから名が上がった武田二十四将は、武将信玄の支えとなったヒーロー的な存在で、軍記などでも人気と高評価を得ています。

武田二十四将図に登場する24人の武将の紹介|武田信玄の名言

武田二十四将とは

武田二十四将とは、武田信玄と彼に仕えた特に優秀、有能、有名な武将のことを示します。信玄の部下の中でも特に後世の評価が高く、歴史ファンにも、武田二十四将びいきの方は多いでしょう。

甲斐の虎と呼ばれ織田信長にすら恐れられたことから、信玄という人物がいかに大物か分かります。そして、優れた主君にはそれを支える優れた家臣が付くのがお定まりです。武田二十四将はまさに、戦国という時代の大物集団と言えます。

武田二十四将と武田信玄

「武田二十四将」と当たり前のように呼ばれてはいますが、実際戦国時代当時からそう呼ばれていたわけではありません。言ってみれば後付けでメンバーを作ったと言ったところです。

「百人一首」があとで一人の歌人により編纂されたのと同じく、武田信玄とその部下が後世になって武田二十四将と呼ばれるに至った、と言った方が近いでしょう。

武田二十四将は浮世絵が発祥

武田二十四将という呼称は、江戸時代に描かれた「武田二十四将図」浮世絵が元になっているとされます。

信玄を中心に、戦いの準備というよりも作戦を練っているかのごとき図柄は独特の迫力を持っており、江戸っ子のハートをしっかりとキャッチしました。ここに描かれた人物が基本的な武田二十四将のメンバーとして数えられるようになったと考えられます。

武田二十四将図に登場する24人の武将を紹介

武田二十四将図は、名称も図柄も物々しく、精鋭軍団というのが一目でわかります。実際、武田二十四将は皆何らかの武勇伝を持ち、今なお人気を保つメンバーが少なくありません。

戦国乱世において、どんな活躍をしたのかを見ていきましょう。

武田二十四将図では武田信玄と23人の武将

有名な武田二十四将図においては、武田信玄を加えて合計24人となっています。一部のメンバーは説によって変動がありますが、有名どころとしては以下に紹介する武将たちです。

信玄の武将の中でも特に主要な家臣を武田四天王といい、武田二十四将の中でも大一揆、第二期に分かれています。父信虎時代から使えていた武将は武田五名臣と呼ばれており、武田家がいかに有能な部下を持っていたかがわかるでしょう。

1:武田信玄

武田信玄は、武田二十四将の中でも外せない中心人物です。甲斐(現在の山梨県)の虎、もしくは龍とまで称され軍師としてはあの織田信長に勝るとまで言われています。今は武田神社の主祭神です。

武田信虎の嫡男として誕生しましたが、自分ばかりか家臣を権力でねじ伏せ時に手打ちにする父信虎を追放する形で家督を継ぎ、多くの勝ち戦を経験します。上杉謙信との川中島の戦いは決着こそつかなかったものの着実に領土を拡大しました。

2:武田信繁

武田信繁は信玄と同じ母から生まれた弟です。武田家の兵法などを記した「甲陽軍鑑」によると父信虎に溺愛され弟ながら父の一存で跡取りになった可能性も大いにありました。

兄を軽んじることはなく、むしろ兄を立てており、信玄が武田家のためにと父信虎を追放してからも兄を助け続けています。4度目の川中島の戦いにて、37歳の若さで討ち死にしました。信玄は弟の遺体を抱いて号泣したと伝えられます。画像は信繁の兜です。

3:武田信廉

武田信廉(のぶかど)は、信玄ならびに信繁の同母弟で、兄信玄と姿が似ていたことから信玄の影武者を務めたとされます。影武者以外でもサポート役をこなし、信繁の死後は武田家の親族として信玄を助け、信玄の死後は一族の重鎮となって、飯田城などの城代を務めました。

父信虎を引き取り、彼の像も作ると言った親孝行な面も見せています。家のためとはいえ父を追放した兄の影武者として、今度は親孝行を果たそうとしたのでしょう。

4:秋山虎重

秋山虎重は、信玄の父信虎の代から武田家に仕える五名臣の一人です。虎重自身は信玄の子、勝頼にも仕えました。

生まれた時期は信玄とほぼ一緒で、晴信と呼ばれていた若き信玄と共に諏訪を攻めています。やがて功を上げて出世をし、葛尾城が落ちると城に残って戦後処理を行いました。

信玄の死後は嫡男の勝頼に仕えますが功を焦った勝頼により武田軍は長篠の戦いで敗北します。虎重は勝頼や仲間の助命を条件にはりつけにされました。

5:小畠虎盛

小畠虎盛は武田二十四将および五名臣の一人です。14歳で家督を継いだ虎盛は、信虎の下足軽大将から出発しました。今川氏、北条氏との戦いに活躍し、甲斐が攻められた時は原虎胤と共に先陣を切って城を守ったとされます。

この名前になったのは今川、北条との戦いの後です。戦いぶりから「虎」の字を賜りました。またの名を「鬼虎」といいます。信虎の追放後は信玄に仕え、出家後も上杉謙信を迎え撃とうとしますが病に倒れました。

6:多田満頼

多田満頼は、美濃国の生まれで弓矢の修行のため甲斐を訪れ足軽大将となった、武田二十四将および五名臣の一人です。またの名を多田三八郎といいます。

野州戦法を得意とし、数多くの武勲を上げ、全身には二十七という傷が刻まれた歴戦の勇士です。その圧倒的な強さを示すエピソードとして、天狗や地獄から来た火車鬼を退治したという話まであります。そんな豪傑でも病には勝てず、4度目の川中島の戦いに参加できませんでした。

7:原昌胤

原虎胤は武田二十四将、五名臣の一人で、今川軍との戦いでは福島正成という人物を討ち取っています。昌胤は武勇に優れた人物であり、美濃守という官位にいたことから鬼美濃、夜叉美濃という異名で呼ばれ怖れられました。

法華宗の信者で、浄土宗に帰依せよとの信玄の言葉を拒んだため一時甲斐を追放されるも善徳寺の会明という和平協定に参加し武田家家臣として活躍を続けます。割ヶ嶽城を攻めた際の怪我が元で引退、病死しました。

8:山本勘助

山本勘助は武田二十四将、五名臣の一人にして、信玄の軍師として伝えられます。

若い頃は武者修行の旅に明け暮れて初めは今川義元に仕えようとしますが、醜い容姿や当時はやっていた塚原流剣術を使用しないのを理由に断られます。

その後、城取の作に長けているとして武田家に見い出されて信玄から全幅の信頼を得てぐんしとして活躍します。1561年、川中島の戦いで死にました。「ヤマカン」の語源になったという説もあります。

9:横田高松

横田高松は、五名臣および、武田二十四将の一人です。信玄が晴信を名乗っていた頃、信濃を侵攻していた時期に活躍したとされます。

信濃村上氏との戦いの際村上氏の拠点の砥石城を攻めるも、この城は攻め込む場所が砥石のごとき崖しかなく、武田軍は撤退を余儀なくされます。そこに村上軍が総攻撃を仕掛け、砥石崩れと呼ばれる混乱が発生しました。高松は自軍を囮に戦死を遂げ、信玄に「彼を手本にせよ」と言わしめます。

10:穴山信君

穴山信君は、武田二十四将の一人にして、信玄、勝頼親子だけではなく織田信長にも仕えた人物です。信君は川中島の戦いにおいても本陣を守り、駿河侵攻の際は今川家の家臣や徳川家との取次役を担っています。

長篠の戦で織田軍に大敗した後は勝頼の寵臣とそりが合わず、息子を勝頼の娘と結婚させるという約束を破られたこともあって信長方に付きました。家康の誘いで織田家臣となりますが本能寺の変の後落ち武者狩りにあいました。

11:甘利虎泰

甘利虎泰は武田二十四将、壮年から晩年にかけての信玄を支えた武田四天王の一人でもあり、家臣の中でも最上位にいたとされます。虎泰は資料が少なく、出自などはわかっていません。

信虎の時代から武田家に仕えていましたが、信玄を気に入らないという理由で冷遇していた信虎に反発を覚えていました。信虎の追放後は信玄を助け、信玄から「武田家の柱」とまで呼ばれます。志賀城攻めの際は本陣とは別動隊で活躍しました。

12:板垣信方

板垣信方は武田二十四将の一人で、武田四天王にも名を連ね、先に紹介した虎泰とは「両職」と呼ばれる筆頭の家臣でした。

信虎の時代から武田家に仕えており、武勇に優れ勝ち戦を多く経験しています。幼い信玄の教育係を任ぜられるほど信頼されていました。文学少年だった信玄を命がけで諭すなど、武田信玄という武将を作った功労者の一人です。

信虎に横暴な振る舞いが増え、家臣の心が離れた時には信虎の追放にも一役買っています。

13:飯富虎昌

飯富虎昌は、武田二十四将の一人で、諏訪・村上の連合軍との戦で97名を討ち取ったとされます。

板垣信方、甘利虎泰と共に信虎を追放した後は武田軍における中核として信玄を支えました。60を前にして川中島の戦いで活躍し、妻女山の攻撃時に大将を務め、名前も相まって甲斐の猛虎の異名を得るに至ります。

朱色の甲冑で身を固めた赤備えの騎馬軍団を初めて率いた人物との説もあり、さまざまな面で武田家をサポートしました。

14:一条信龍

一条信龍は武田二十四将の一人で、信玄の異母弟です。親戚に当たる一条家の養子となり後を継ぎました。

人柄については諸説ありますが信玄が嫡男勝頼の後見人として任命した人物なので、それなりの度量は伺えます。実弟かつ親族衆として、本願寺や松永久秀を始めとする近畿の勢力との外交を務めました。

戦場では援護係で、戦績といえば長篠の戦いで敵方の三重の柵を二重まで破る活躍を見せたという一点豪華なエピソードがあります。

15:小幡昌盛

小幡昌盛は二十四将の一人で、「甲斐の虎」とされた信玄をして「鬼の子」と称されたほどの武勇の主です。

鬼の子と言われても恐れられてのことではなく、その戦いぶりを認められてのことで信玄からは直に名刀一文字を授けられています。「鬼の子には、鬼の娘がふさわしかろう」と、鬼美濃の異名を持つ原昌胤の娘と結婚しました。

海津城副将の地位を用意されながら信玄の旗本になりたいと望み、切腹させられかけたこともあります。

16:小山田信茂

小山田信茂は武田二十四将の一人ですが、勝頼を裏切り武田家を断絶されるきっかけとなりました。一説には投石部隊を率いて三方ヶ原の戦いで徳川家康を苦しめたとされますが、これは俗説です。

戦では前面に出てよく戦い、他家との取次役をこなしたことから文武両道型だと年長者の山県昌影に言われました。長篠の戦いで大敗を喫した後、勝頼に岩殿城に来るよう勧めますがこれは罠であり、織田軍の襲撃で武田家は滅びました。

17:高坂昌信

高坂昌信は春日虎綱とも呼ばれる武田二十四将の一人です。元の姓は春日で、香坂家の娘をめとったのが元で高坂昌信と名乗るようになりました。

香坂弾正を名乗っていた時期があり、谷弾正を名乗った武将と区別するため「逃げ弾正」の異名を持ちます。これは臆病者ということではありません。時には撤退する必要も出ます。その采配が優れていたので、「逃げ弾正」と呼ばれるに至りました。

18:三枝昌貞(後に守友)

三枝昌貞は武田二十四将の一人で、信玄に見い出されて足軽対象になりました。信玄の怒りを買って謹慎させられたともされます。それでも川中島の戦いで活躍したことで土地を与えられており、許されてからは代官に任ぜられました。

信玄だけではなく勝頼の時代になっても武田家に仕えています。長篠の戦いの後は城を見張る別動隊になりましたが、織田方の襲撃を受けました。奇襲や数での不利にも負けず戦いますが、戦死します。

19:真田幸隆(または幸綱)

真田幸隆(または幸綱)は、「攻め弾正」の異名を持ち、息子と共に武田二十四将に数えられる人物であり、真田幸村の祖父に当たる人物です。

元は海野棟綱の家臣でしたが信虎により海野家が敗北、上野に追いやられました。この合戦の後、信虎は追放されています。上杉憲正に仕える選択肢もありましたが、幸隆は武田家に入りました。

幸隆自身は知略に長け戦の功績も多く、皆から一目置かれて、攻めの弾正の名を得るに至ります。

20:真田信綱

真田信綱は武田二十四将の一人で、先の幸隆の嫡男に当たります。父幸隆の陰に隠れて前半生の活躍についてはあまりわかっていません。

川中島の戦いでは別動隊で妻女山の攻撃に参加していたとされます。長篠の戦で弟と共に戦死をした後、息子がいたにもかかわらず、勝頼が命令したため彼らが家督を継ぐことは許されませんでした。

これにより、別の弟である昌幸が真田家を継ぎ、幸村へと真田家の家督が継がれていきます。

21:土屋昌次

土屋昌次(もしくは昌続)とは武田二十四将の一人で、4度目の川中島の戦いにおいて信玄から離れることなく戦い、侍大将に出世をしました。

上野国衆、信濃国衆、東信国衆といった武田家により支配された土地の面々と取次ぎを行うなど、外交面に長けていたとされます。関東方面の武将とも外交をしました。

三方ヶ原の戦いで家康の部下を打ち取る手柄を立てますが、昌次自身は長篠の戦で、わずか31歳で討ち死にしています。

22:内藤昌豊

内藤正豊は武田二十四将の一人で、父子二代で武田家に仕えた人物です。元の名前は工藤祐長でした。父の工藤虎豊は信虎に仕えていましたが、怒りを買って殺されています。その後流浪の旅に出ます。

信虎が追放された後信玄に呼ばれて元の領地と家督を継ぐことが許されたました。信玄は自身の父の罪を家臣である昌豊に謝罪し、祐長改め昌豊は信玄に仕えることとなります。長篠の戦いで勝頼の軍勢を逃がし矢だるまになって死にました。

23:馬場信春

馬場信春は信虎、信玄、勝頼の三代にわたって仕えた武田二十四将の一人です。初陣で諏訪家との戦いぶりが認められて信虎の親衛隊となりました。

40年間傷を負わなかったという伝説まであり、「不死身の鬼美濃」との異名までつきました。過激なデビューと異名ですが、沈着冷静な人格者で皆から慕われていたとされます。平賀源心を倒し、三方ヶ原の戦いでは徳川軍を追い詰める活躍ぶりです。長篠の戦で織田方と戦い戦死しました。

24:山県昌景

山県昌影は、赤備えならびに武田二十四将の一員であり、武田軍でも最強とされる人物です。同じく武田二十四将、飯富虎昌の弟で、かつては源四郎という名前でした。

「源四郎の行く所に敵はない」と言われるほど強かったとされます。山県姓は信虎の時代に断絶していましたが、信玄により復活しました。

長篠の戦いで戦死し、「信長公記」において「討ち取った敵」として一番に上がるビッグネームです。

武田二十四将についてもっと知りたい方へおすすめの本

武田二十四将についてもっと知りたい、という方へおすすめするのは本、それも物語形式の漫画です。

大島やすいち作、工藤かずや画のこの漫画作品では、信玄よりも家臣たちの方に重きが置かれています。誰がどんなふうに生き、そして落命していったかを渋く、かつ壮大に描いたもので、歴史ファンの方にも、そうでない方にもおすすめの作品です。

武田二十四将を束ねた武田信玄の名言5つ

23人もの名武将をまとめ上げた信玄ですが、なぜ皆彼について行ったのか。信玄は数多くの名言を残しており、それが人をまとめる礎となりました。

中には現代でも通用する名言もあります。以下にご紹介する名言を心に刻み、これからを生きていくための指針とするのもいいでしょう。

1:風林火山

武田二十四将図に登場する24人の武将の紹介|武田信玄の名言
元々風林火山とは孫子の兵法に記されていた、戦いにおける心得です。創作との説もありますが、戦国時代のヒーロー、武田信玄のスローガンとしてはぴったりと言えるでしょう。

風林火山をそのまま訳すと「風のように速く動き、林のように静かに軍勢を整えて敵から攻めにくいようにし、火のように侵略をして、動かぬ時は山のように構える」といったところです。意味は「状況に応じて臨機応変に動け」となります。

2:組織はまず管理者が

武田二十四将図に登場する24人の武将の紹介|武田信玄の名言
「組織はまず管理者が自分を管理せよ」とは、「上に立つ者は自分を戒めなさい、自分がまずしっかりしなさい」との武田信玄の言葉です。下克上が当たり前の戦国時代において部下を統率するには、「この方について行こう」と思わせることにあります。

信虎が追放されたのがいい例です。横暴な振る舞いをした信虎は家臣から見放され息子に取って代わられました。父を反面教師にしてか、信玄はこの言葉を掲げています。

3:渋柿は渋柿として

武田二十四将図に登場する24人の武将の紹介|武田信玄の名言
「渋柿は渋柿として」というのは、適材適所を意味する信玄の名言です。誰でも何かしらに長けている部分があります。上に立つ者は、部下の長所を見極めて、それを伸ばし、活用してやらなくてはなりません。

渋柿は渋柿として使え。接木をして甘くすることなど小細工である。

出典: https://sengoku-g.net/wremarks/view/103 |

4:信頼してこそ

武田二十四将図に登場する24人の武将の紹介|武田信玄の名言
人間関係で何より大切なのは信頼です。信じていればこそ、武田二十四将に代表される武将や部下は殊勲のために働きます。部下の信頼を得るには、まず自分が人を信じなくてはいけません。

武田二十四将の一人、内藤昌豊は父親を殺されました。父の仇とも言える人物の息子に仕えるとなった時、その息子は「私の父が済まないことをした」と頭を下げています。それも心からです。こうした行動によって信玄は部下達の忠義を得たのでした。

信頼してこそ
人は尽くしてくれるものだ。

出典: http://iyashitour.com/archives/19590 |

5:人は堀人は生垣

武田二十四将図に登場する24人の武将の紹介|武田信玄の名言
「人は堀、人は生垣」とは、武田信玄の名言の中でもトップクラスに有名な言葉です。信玄は部下から丈夫な城を作って敵襲に備えようと意見された時にこの言葉を言ったとされます。

信玄が言いたかったのは、「重要なのは人だよ」といったところです。城、石垣、堀、いずれも戦国武将には重要ですが、一番大事なのは人とその心だと信玄は言いました。

人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり。

出典: http://kenplanning.sakura.ne.jp/www/2013/06/20/%E6%AD%A6%... |

武田二十四将は武田信玄を支えた名将たち

武田二十四将は、武勇や知恵に優れた戦上手や優秀者というだけではありません。武田二十四将の面々の中には以下に信玄が部下とのつながりを重視していたかがわかる人物も多いです。父の信虎、息子の勝頼にはない何かが信玄にはありました。

それが結果優秀な部下を惹きつけ、武田二十四将として数えられるに至ったにすぎません。彼らは時代を、信玄を支え、共に駆け抜けた同志です。

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