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2019年01月24日

西郷隆盛の墓がある南洲墓地に眠る将士8名|南洲墓地概要

西郷隆盛は、映画やドラマでも多数その生涯が描かれています。明治維新のリーダーの中のリーダー的存在だった西郷隆盛は、みんなに慕われる存在だったといわれています。西南戦争で自決した西郷隆盛の亡骸は南洲墓地で眠っています。その墓地について紹介します。

西郷隆盛の墓がある南洲墓地に眠る将士8名|南洲墓地概要
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西郷隆盛とは

西郷隆盛の墓がある南洲墓地に眠る将士8名|南洲墓地概要
西郷隆盛の生まれた家は、薩摩藩の下級藩士でしたが、同じ年頃の若者たちのリーダー的存在でした。。1866年に長州藩と薩長同盟を結んでから後、江戸幕府と戦い江戸城を開城させ、ここでもリーダーぶりを発揮しました。

西郷隆盛は、幕末に活躍し明治維新を成功させた人物のひとりです。明治維新の英雄と仲間からも明治天皇からも信頼されていたのですが、明治10年に明治政府と西南戦争を起こし、戦って敗れた後に自決します。

西郷隆盛の出身地

1828年、父親は西郷吉兵衛、母親は梶原権衛門の娘のマサの長男として西郷隆盛は、薩摩国鹿児島城下下加治屋町山之口馬場、今の鹿児島県で生まれました。幼名を小吉、その後吉之助として知られています。

西郷隆盛の生まれた下加治屋町は、城下町ですが、鶴丸城からは遠く、下級藩士の家がたくさん建っていたとろこだといわれています。

西郷隆盛の最期

西郷隆盛の墓がある南洲墓地に眠る将士8名|南洲墓地概要
明治維新を成功させ、明治政府の設立に大きな功績を残した西郷隆盛は、参謀と陸軍大将や近衛都督(天皇をお守りする部隊)などの職についていました。鎖国している韓国を武力で開国させようとする征韓論があり、平和的に開国させようとしますが反対派の工作で失敗し、参謀職を辞めて鹿児島へと帰りました。

最後は、不平士族のリーダーとして西南戦争を戦い、1877年49歳で西郷隆盛は破れて城山にて自決し、一生を終えました。

南洲墓地は薩軍2023名の将士が眠る場所

南洲墓地は、明治10年に起こった西南戦争で亡くなった2023名の将士をお祀りしています。
薩摩軍が全滅した当時は、西郷隆盛らの戦死した遺体は、鹿児島市内の5つの場所に仮埋葬されていましたが、明治12年位に有志により、お墓をここに纏めて改葬され、南洲墓地となりました。

墓石は749基あり、一部の墓石には葬られた人の名前が記されています。昭和30年1月14日に鹿児島県指定史跡に登録されています。

西郷隆盛の墓がある南洲墓地に眠る主な将士8名

始め南洲墓地には、西郷隆盛と40人が埋葬され、明治12年に224名、明治16年にはさらに鹿児島県外で戦死した薩摩軍の遺骨なども集められ2023名が埋葬されています。なかには14歳で戦死した伊知地末吉や池田幸太郎もこの墓地に埋葬されています。

1:村田新八

1836年11月3日生まれで正式名は経満(つねみつ)、歳は西郷隆盛の9つ年下になります。明治に入り、鹿児島常備隊の砲兵隊長を務め、その後宮内庁の職員となります。国際法に詳しく、アメリカと条約改正のため大久保利通と岩倉使節団に加わっています。

和歌と漢詩を嗜んでいて、多くの作品や書簡が残っています。村田新八は西南戦争の最後まで西郷隆盛と一緒に戦い、戦死しました。とても有能な人材だったといわれています。

2:別府晋介

1847年生まれで、戊辰戦争に参戦後、廃藩置県のときに西郷隆盛が率いた御親兵に参加します。1873年征韓論で敗れた西郷隆盛が辞職して鹿児島へ帰ると、別府晋介も少佐の地位を捨てて帰りました。西南戦争が勃発後、熊本城や田原坂の戦いで敗北し、薩摩藩は城山で立て籠もり、最後の抵抗を見せました。

西南戦争で共に戦い、西郷隆盛が切腹する際の介錯をしたのが別府晋介で、隆盛切腹の直後に自らも切腹して自害しています。

3:桐野利秋

桐野俊利秋は中村半次郎といい幕末の最強剣士で、人切り半次郎と呼ばれた人物です。生まれたのは1838年で、桐野の家も典型的な薩摩藩士の家でした。剣の腕は新選組も警戒する程の腕前で、明治維新後は陸軍少将まで出世しました。

征韓論が原因で西郷隆盛が鹿児島へ帰ると桐野も帰り、明治政府への不満から不平士族の反乱が起きたのは桐野のせいだといわれています。西郷隆盛の死を見届けてから額を撃ち抜かれて戦死しています。

4:篠原国幹

篠原国幹は西郷隆盛からもっとも信頼されていた人です。1837年に生まれ文武両道の秀才だったといわれています。廃藩置県後は陸軍少将まで出世しましたが、西郷隆盛が鹿児島へ帰ると、多くの薩摩出身者が明治政府を去りました。

西南戦争になると、田原坂から吉次峠の激戦の末、明治10年3月4日の早朝、かつての部下が発見され、一気に銃弾んを撃ち込まれ、命を落としました。南洲墓地では西郷の隣に埋葬されています。

5:桂久武

桂久武は日置島津家の出身で、1830年に生まれました。島津斉彬の死で人生が暗転しますが、後に家老として藩政に復帰することになり、対立していた長州藩と手を結びました。維新後も出世した後、故郷へ戻りました。

鹿児島でのんびりとして過ごしており、西南戦争勃発の際も最初は不参戦を決めていましたが、物資の運搬などをする隊の本部長を務めました。西郷最後の地となった城山の岩崎谷の流れ弾に当たり亡くなりました。

6:辺見十郎太

1849年生まれで、名前は昌邦といいます。維新後は近衛陸軍大尉となりますが、1873年に皇居が焼けたときに、新宿の妓楼で遊んでいて、救援には行けず、同僚から切腹を迫られましたが、西郷隆盛が助け心を入れ替えたといわれています。

西南戦争になり、弾丸が飛び交う中先頭をきって突撃するほど、気性が激しい人でした。西郷隆盛の死後、別府晋介と刺し違えて亡くなった、政府軍に突撃して戦死したとも伝えられています。

7:池上貞固

1842年薩摩藩侍医の池上貞斎の子として生まれ、家業を継ぐための教育を受けましたが、医術は好まず、西郷隆盛の教導を受けて勤王の志を抱きました。

西南戦争では、西郷刺殺計画に憤慨して挙兵し、とても才能に秀でた軍略家で、事務処理能力もあったので軍事参謀や病院をひとりで担当していました。西郷の自決を見守った後は桐野と村田と岩崎口に進撃した際に、弾丸が降り注ぐ中、自決しました。

8:大山綱良

1825年薩摩藩の樺山善助の次男として生まれましたが、後に大山家の婿養子になります。戊辰戦争の時には西郷隆盛と大久保利通と共に王政復古の大号令に参加し、庄内藩との戦いには苦戦しましたが戦後、明治政府から賞されました。

征韓論争で西郷が帰郷と同時に新政府に税金を納めず、鹿児島は独立しているように世間から見えていました。西南戦争では西郷に秘密に資金を提供し、鎮圧後に罪を問われ明治10年に斬首されました。

西郷隆盛に興味のある人が読む本

西郷隆盛ファンの人にはツボになるような一冊といえます。誰でも知ってる英雄の顔ですが、実際の隆盛の顔ではないのではないかということを聞いたことがないでしょうか。誰も知らない本当の顔、明治7年に陸軍省で撮られたという一枚の写真があります。

山縣有朋、勝海舟といった元勲たちのでこの中に西郷隆盛がいるといいます。似ても似つかない姿で写っているので、本当に西郷隆盛なのか、地道な調査や検証などを紹介しています。

茶屋氏本人が友人のエミリーに見せられた一枚のセピア色の写真。

その経緯を一般小説風に書かれた出だしに不安を覚えたが、読み進めて行く度にグイグイ引き込まれた。
西郷隆盛以下、明治政府の大物が写真に収まっているとされるのだ。

ドイツ人・ジュリアス・ヘルムと紀州和歌山藩の津田出。
変わらない士農工商の身分制度の中、ドイツを手本とした四民皆兵を成功させた和歌山藩。
忍び寄る西郷らの廃藩置県・・・時は明治4年・・・

茶屋氏の推理考察が1つにまとまった時、驚きのラストが訪れる!

西郷の顔写真については、加治将一氏や斎藤充功氏がいますが、それらが好きな方にはツボかもしれません。
ただ残念なのは、作品中に扱われている写真がP126・151・224の3か所に小さいのしかなかったこと。これが定価に反映されたのか?はたまた大人の事情でこうならざるえなかったのか・・・??

出典: https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R1EP06MQZA8O... |

西郷隆盛の墓がある南洲墓地の基本情報

桜島を望むことができる見晴らしの良い丘の上に、南洲墓地があります。西南戦争後に城山や鹿児島県内、宮崎、熊本、大分から集められた薩摩軍の兵士2023名の墓が、西郷隆盛のお墓を囲んでここに眠っています。

西郷隆盛を支援した鹿児島初代県令や深い親交のあった勝海舟が亡くなった友人を詠んだ歌碑などが建っています。

概要

南洲墓地には、西南戦争で敗れた薩摩軍2023名が眠っています。西南戦争は明治10年9月24日に、官軍の総攻撃によって西郷率いる薩摩軍が全滅し、西郷が自刃するまでの約7ヶ月間のことを指します。

終結後、鹿児島県令の岩村通俊が、官軍の許可を貰い、西郷らの遺体を鹿児島の5ヵ所に仮埋葬しました。

明治12年有志により、墓を纏めて改葬し、散在していた西郷軍の遺骨も集められ2023名が眠る南洲墓地になりました。

住所

住所は鹿児島県鹿児島市上竜尾町2番地1号で、南洲公園内にあります。南洲墓地は1955年1月14日に鹿児島県指定史跡に登録されました。墓地の近くには、西郷隆盛を祀った南洲神社があります。

園内には西郷隆盛を祀った中に西郷南洲顕彰館があり、1977年に西郷隆盛没後100年を記念して建てられました。顕彰館では、西郷隆盛が着ていた衣服や西南戦争に関する資料などが、分かりやすく展示されています。

アクセス

南洲墓地へのアクセスは下記の通りです。

・最寄駅は鹿児島中央駅で、市営バスで約25分「竪馬場通り」で下車、徒歩で5分
・鹿児島中央駅から鹿児島市交通局のカゴシマシティビュー約25分「西郷南洲公園入口」下車、徒歩6分
・駐車場:普通車50台、バス10台

カゴシマシティビューはレトロな路面電車風のバスと海とイルカをイメージしたバスで、鹿児島中央駅を発着の起点に鹿児島市内の観光スポットを巡っています。

定休日

西郷隆盛が南洲と呼ばれるのでしょうか。理由は、沖永良部島に居たときに文筆活動に使った
ペンネームが西郷南洲だということです。南洲墓地の定休日と営業時間は下記の通りです。

・営業時間:9:00~17:00
・定休日:月曜日、年末年始
・電話:099-247-1100

南洲墓地には西郷隆盛の墓がある

西郷隆盛の墓がある南洲墓地に眠る将士8名|南洲墓地概要
西郷をはじめ、たくさんの若者が西南戦争で亡くなり、この南州墓地で眠っています。後に鹿児島県令の岩村通俊が、自ら戦死者の墓碑を書いてこの南洲墓地に建てました。

かつて同志だった勝海舟が、西郷隆盛を偲んで詠んだといわれる歌碑が建てられています。「ぬれぎぬを干そうともせず子供らがなすがまにまに果てし君かな」多くの藩士たちに慕われ、現在においてもすっかり墓を囲まれている西郷隆盛です。

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