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2019年03月22日

菅原道真の百人一首について│菅原道真を4つの視点から紹介

百人一首はお正月の遊びの1つでしたが、今では漫画やアニメ、映画などでは百人一首が取り上げられたことで、競技用かるたとして若い人の間でも人気が高まっています。その百人一首には学問の神様として有名な菅原道真の歌が含まれています。

菅原道真の百人一首について│菅原道真を4つの視点から紹介

百人一首とは

菅原道真の百人一首について│菅原道真を4つの視点から紹介
百人一首は飛鳥時代から鎌倉時代初期までに作られた有名な和歌をまとめた物です。詠み手はその和歌の上の句を詠み、その上の句に合った下の句の札を取り合います。

その百人一首といえば、お正月の遊びの1つでした。しかし、今では漫画やアニメ、映画などでは百人一首が取り上げられたことで、競技用かるたとして若い人の間でも人気が高まっています。

菅原道真の百人一首

菅原道真の百人一首について│菅原道真を4つの視点から紹介
百人一首はいろいろな歌人の和歌がまとめられています。その歌人の中には学問の神様として祀られている菅原道真の和歌も含まれています。

菅原道真は35歳で最高の権威である文章博士になり、54歳で右大臣となります。また、894年には894年には遣唐使の廃止をしています。

百人一首で詠まれている菅原道真の和歌は「菅家」で、「このたびは幣も取りあへず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに」という内容になっています。

現代語訳

菅原道真の百人一首の和歌は「菅家」で、「このたびは幣も取りあへず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに」という内容になっています。

この和歌を現代語訳にすると、「この旅は急なことで、お供えする幣を用意することができませんでした。手向山の紅葉を捧げるので、神よ御心のままにお受け取り下さい。」という内容になります。

意味

菅原道真の百人一首について│菅原道真を4つの視点から紹介
菅原道真の菅家は奈良県の吉野で、宇多上皇の御幸の際に詠まれた歌です。当時は旅の安全を祈って、道祖神にお参りをして、細かく切った紙や布を道にまいていました。

しかし、今回は急な旅となり、その準備ができませんでした。そのため、代わりに紅葉を集めて、細かく切った紙や布の代わりに神へ捧げたということを歌にされています。歌に出てくる手向山は奈良市奈良公園の背後にある山のことで、山麓には手向神社があります。

このたび

菅原道真の和歌「このたびは幣も取りあへず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに」というものです。これらを1つ1つにの言葉に分けて意味を読み解くことで、当時の状況などを細かく理解することができます。

「このたび」の「たび」には「旅」と「度」という2つの言葉の意味を持っています。このような言葉の使い方を掛詞と言います。なので、現代語訳では「旅」と「度」の意味を持たせて、「今度の旅は」という意味になります。

幣も取りあへず

「幣」は「ぬさ」と読みます。幣は旅の安全を祈って、道にまいていた細かく切った紙や布のことです。幣には色とりどりの木綿や錦などが使われていました。

「取りあへず」には「用意することができなかった」という意味です。なので、「今度の旅では」、「幣を用意することができなかった」という意味になります。

手向山

「手向山」は「たむけやま」と読みます。先に述べた通り、手向山は奈良市奈良公園の背後にある山のことです。

手向山は現在の京都府である山城国から現在の奈良である大和国へ行き来する際に通る山です。また、「神に幣を捧げる」という意味の「手向」も掛かっています。

紅葉の錦

「紅葉の錦」は紅葉の美しさを錦に例えています。なので、「錦のように美しい紅葉」という意味になります。

「今回の旅では」、「幣が用意できなかったため」、「代わりに錦のように美しい紅葉を集めました」というような意味になります。

神のまにまに

「神のまにまに」には「神の御心のままに」というような意味があります。「御心のままに」には身分や立場が下の者が、上司・主人、目上など言うことに対して、素直に従うという意味があります。

なので、「今回の旅では」、「幣が用意できなかったので」、「錦のような綺麗な紅葉を集めて」、「神の言う通りに幣の代わりとします」というような意味になります。

菅原道真の人物像

菅原道真の百人一首について│菅原道真を4つの視点から紹介
菅原道真の歌は百人一首に含まれているため、歌人としての印象を持つ人もいますが、多くの人は学問の神様という印象を持つ人も多いです。

菅原道真が学問の神様として祀られるようになったことには、菅原道真の人物像や歴史的な経緯などが関連しています。

1:幼少期に作った漢詩

菅原道真は学問の神様として祀られています。それだけ菅原道真には起きな才能があったということです。菅原道真の才能はわずか5歳で開花して、月夜見梅花という漢詩を作りました。

その月夜見梅花の内容は「月耀如晴雪 梅花似照星  可憐金鏡轉 庭上玉房馨」で、現代語訳すると「月の輝きは晴れたる雪の如し梅花は照れる星に似たり、憐れむべし、金鏡転じ、庭上に玉房の馨れることを」となります。

2:京都を離れる際に詠んだ和歌

菅原道真の百人一首について│菅原道真を4つの視点から紹介
菅原道真は右大臣として、国家の発展に尽くしいました。しかし、左大臣の藤原時平の政略によって、身に覚えのない罪を着せられ、大宰府に左遷されることになります。また、菅原道真は左遷によって京都を離れる際に、家族と十分な別れも許されませんでした。

家族との別れが許されなかった菅原道真は、自宅の梅の木に対して「東風吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」という別れの歌を詠みました。

3:学問の神様

菅原道真は太宰府へと左遷されてた2年後には病気でなくなってしまいます。菅原道真の死後、都では疫病は流行ったり、貴族の死や落雷が相次いだため、菅原道真の祟りと都では噂が広まりました。その祟りを沈めるために、道真を元の右大臣の位に戻し、左遷を取り消します。

その後、都の女性の前に菅原道真の霊が現れて、祠を立てることを伝えます。これらのことから菅原道真は神として祀られるようになります。

4:至誠や雷神や農耕の神でもある

菅原道真の歌は百人一首に含まれています。ですが、菅原道真は歌人としてよりも学問の神様として馴染みが深いです。

また、菅原道真は学問の神様として祀られたり、百人一首の歌人だけでなく、優れた政治家であったことや、菅原道真の死後に都では天災が増えたことなどから、至誠や雷神、農耕の神様として祀られることがあります。

菅原道真の人生

菅原道真は幼い頃は神童と呼ばれ、右大臣としても活躍をしました。しかし、身に覚えのない罪を着せられて太宰府へ左遷されて、その2年後には病に倒れるという人生を送っています。その人生の中で百人一首に含まれる菅家も詠んでいます。

また、菅原道真の死後には学問、至誠、雷神、農耕などの神として祀られるようになりました。壮絶な人生や神として祀られるまでには、他にも多くの出来事があります。

私は日本史が苦手なので、難解な部分もありました。
しかしそれは、系図でフォローできました。飛ばした部分もあります。私のような愚か者は、二度は読まねば、背景となった権力関係がしっかりとは分からないでしょう。

出典: https://www.amazon.co.jp/%E8%8F%85%E5%8E%9F%E9%81%93%E7%9... |

菅原道真の百人一首の背景

菅原道真の百人一首について│菅原道真を4つの視点から紹介
百人一首の菅家は菅原道真が54歳で右大臣に就任する前年に詠まれています。先に述べた通り、この歌は宇多上皇が京都から奈良に御幸されたときに、同行した菅原道真が旅の道中で詠んだ歌です。菅原道真は百人一首の菅家以外にも、多くの歌を詠んでいます。

百人一首を詠んだ人の人生や意味を理解しよう

菅原道真の百人一首について│菅原道真を4つの視点から紹介
菅原道真は学問の神様として有名です。しかし、学問以外にも、至誠や雷神、農耕などの神様としても祀られたり、百人一首に和歌が含まれていたりなどします。これだけ多くの種類お神様として祀られたことには、菅原道真の人生が大きく関わっています。

学問の神様としてだけでなく、他の神様としての菅原道真や、その人生について知っておいても良いでしょう。

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